30周年記念誌より

重要文化財 旧中埜家住宅


1 概  要
 名鉄河和線、知多半田駅より百米ほど北寄りの商店街の一角の、小高い丘の上に財団法人桐華学園がある。
 重要文化財旧中埜家住宅は、その学園内の西北隅に南面して建てられている。
 この住宅は、第10代中埜半六が英国留学中に見たヨーロッパの住宅の美しさにひかれ、それを模して、別荘として建てたものである。
 上棟は明治44年5月11日で、設計者は、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築科長、鈴木禎次教授である。棟札によると、請負者志水正太郎、大工棟梁小森雷吉となっている。
 この建物は、山荘風の瀟洒な、明治の洋風建築の粋が尽されたもので、鈴木禎次先生の作品の中でも逸品ともいわれるものである。
 外壁にハーフチンバースタイルを取り入れ、複雑な壁面と屋根とをうまく組合せて、変化に富み海の見える丘の上のお伽噺に出てくるようなこの建物は、市民のシンボルとして愛されてきたが、戦後第11代中埜半六氏が、若い女性のために、財団法人桐華学園を設立し、その本館として解放したので、いっそう親しまれ、今日に至っている。

2 重要文化財指定
 昭和51年2月3日、文部省告示第13号により重要文化財に指定された。
 知多半島5市5町のうち、唯一の重文建造物である。

3 構造・規模
 木造2階建、屋根天然スレート葺。
 建築面積  242.425平方メートル
 延床面積  321.925平方メートル
 屋根面積(平葺面積) 435.591平方メートル
 桁  行  桁行両端柱間真々 19.998米
 梁  間  梁間両端柱間真々 13.938米
 軒 の 出  側柱真より鼻隠し外面まで 0.644米
 軒高(東面)柱礎石上端より鼻隠下まで 5.339米
  〃 (西面)      〃      3.512米
  〃 (北面)      〃      2.757米
 棟  高  柱礎石上端より棟頂上まで 9.947米


4 形  式
〔平 面〕
 東面中央部に玄関及び車寄せを設ける。1階は広間を東北隅に広くとり、折曲がった中廊下の南側に、東より客室(出窓付)、居間・食堂・寝室を、北側に東より書生室・便所・暗室・女中部屋・台所を設ける。
 西面に、寝室と台所の間に浴室を配置。広間西寄りに階段を設け、階段下に手洗所を設ける。
 南西中央部には、1・2階共ベランダを設ける。1階ベランダは、列柱5本建て、柱はエンタシスに形造る。
 2階は広間の南側に洋室と和室を配する。西寄り和室の西側に物置を付する。
〔基 礎〕
 建物側廻り及び間仕切とも布煉瓦積みとするが、東面・南面・北面の一部は、外面に上段葛石下段羽目石貼りとする。床束位置には束石を置く。建物外周に陶製角型排水溝をめぐらす。
〔軸 部〕
 側廻り及び間仕切位置の基礎上に土台を廻し、柱を立て開口部には楯を入れ、窓位置には窓台楯を付け、壁面には胴繋、筋違を入れ、間柱を立てる。床下は束石上に束を立て、大引を渡し根太を配り板張り。
 2階は2階胴差上に柱を立て、開口部・壁面等は1階と同じ。柱頂上に軒桁を廻す。床は胴差に大根太を渡し板張り。
〔小屋組〕
 梁間2間の真束小屋組に、小屋筋違打ちとし、合掌に母屋を配し、野地板を縦張りとし、軒先には化粧垂木を配する。
〔屋 根〕
 南面ベランダを挟んで左右を切妻屋根とし、また北面階段室と東面北半分も切妻屋根を架け、台所屋根及び西面屋根は入母屋、東面屋根は寄せ棟造り。南面及び東面の開合部や窓位置の屋棟勾配は緩くなっている。北面屋根中央に明り取りまどつき。屋根材は、天然手割スレート葺。うろこ形と角形スレート板を登り8段ごと交互に葺く。棟及びけらば銅板包み、2階ベランダ屋根瓦棒銅板葺。客室出窓屋根及び小庇銅板葺。大棟両端にファイニアルを立てる。
〔外 装〕
 建物側廻り基礎上に、人造石洗い出しの巾木を廻し、壁は木摺下地漆喰塗り。南面、東面及び北面と西面に一部は、窓下に人造石洗い出しの付出しを廻し、巾木より付出し間の漆喰壁に小石を埋込む。
 外壁はハーフチンバー様式をとる。
 東面及び北面東寄り煙突は、外部1階部分を石貼り、それより上は木摺下地漆喰塗り仕上げ、北面中央煙突は、屋根より突出部は木骨木摺下地漆喰塗り仕上げ、西面煙突は基礎より頂上まで煉瓦化粧積み。
〔内 部〕
 細部形式表のとおり。




5 大修理工事の内容
イ 工事の経過
 この建物は、優美な姿にも似ず、堅固で、昭和19年12月、20年1月の東南海地震、三河湾沖大地震にも、ビクともしなかった。しかし、その後の大台風毎に少しずつ損傷し、その都度小修理を重ね、伊勢湾台風では、屋根が大被害を受けたので、一部亜鉛鍍鉄板張り等で雨漏りを防いできた。
 ところが、重要文化財の指定を受けた頃は、すでに建物の外廻り(屋根・壁・塗装等)が老朽しており、特に屋根スレート葺は、スレート板の経年による風化摩耗に加えて、台風による被害で相当破損し、雨漏りを生じており、部分繕いでは防止できない状態となった。
 よって、地元では修理工事の計画をたて、文化庁ヘ補助金交付申請書を提出。国庫、及び愛知県、半田市の補助を得て、昭和53年1月より、事業期間8ヶ月、総事業費1,560万円で工事に着手した。
 工事は昭和52年度と同53年度に亘る継続事業で実施されたが、外壁解体後調査の結果、木部の腐朽が予想外に大きく、予算増額の必要を生じたので、設計変更の許可を得て、総事業費1,850万3,728円、工期9ヶ月をもって、昭和53年7月31日工事を完了、同年9月30日事業を完了した。
ロ 工事組織
 発注者   旧中埜家住宅修理委員会
 設計監理  財団法人文化財建造物保存技術協会
 施工者   八洲建設株式会社
ハ 修理工事実施仕様及調査
 修理としては、屋根葺替及び外部廻りを全面部分修理として、内部は修理の対象外とした。
 スレート葺屋根は、全面葺替を行い、棟及びけらばの亜鉛鍍鉄板包み及びベランダ、小庇等の亜鉛度鉄板葺を、それぞれ銅板に取り替えた。木部は土台を含み腐朽部分の取替のほか、矧木・根継等を行い、部材によっては添木・金物等で補強した。外部漆喰塗壁の破損の著しい個所は、下地より補修し、全面塗り直しを行った。外部木部のペンキ塗り替えを素地までケレンして、建築当時の色彩で塗り替えを行った。このほか、雨樋、水切りを銅板にて取替え、建具の補修、建物周囲の排水溝整備等を行った。
 附帯工事として、正面渡り廊下接続屋根、及び両面接続屋根の撤去、整備を行った。
 なお、工事に併行し、解体途中、実測調査、後世の修理、形式・技法の調査を行い、全て記録し、調書を作成。実測図をケント紙に製図し墨入れ仕上げとした。写真も修理前、工事中、修理後と各所ごとに撮影、資料の写真も撮影した。
 竣工後、工事の概要、各種調査の結果を編集し、諸記録を併載した修理工事報告書300部を刊行した。
 別図の図面は、その時作成したものである。

6 おわりに
 前段に述べたように、文化庁と県・市ご当局の温かいご配慮により、大修理がなされ、再現された美しい姿を仰ぎみて、往時を偲び、関係者一同、感激の涙を禁じ得なかったのである。建築当時の設計図は散逸し、僅か陰画の平面図1枚と「繰り型」、ディテールを描いた図面2枚しか保存されてなかったので、第12代目にあたる、学園理事長中埜邦夫先生、校長であり修理委員長の榊原久夫先生、その他関係者、古老などの記憶を頼りに、色彩や煙突の形状を復元。材料、工法とも解体調査しながら、全く当時そのままの入念な施工を行ったのである。
 ただ残念なことは、予算の関係から、今回は外部のみの大修理となり、内部については一切手を加えてないことである。
 1日も早く、一部に残っているのみのガス灯、汚れた壁紙、床のリノリューム・カーペット、窓枠(上げ下げ窓)及建具の復元工事がなされることを待望するものである。
 われわれ建築に関るものが中心となって、声を大にして、市民運動としての復元保存工事にまで盛り上げ、「知多の建築」のシンボル的存在である、旧中埜家住宅の完全復元を果たすことが、次の世代のための、我々の責務ではなかろうか。


この文は、1983年発行の(社)愛知建築士会半田支部 創立30周年記念誌「ちたの建築」誌より転載したものです。